シルクロード鉄道旅行-第2弾(上海→敦煌)(13)

画像
兵どもが夢の跡

 一旦ホテルへ戻り、午後(と言っても夕方近くだが)になってから敦煌郊外のツアーに出発。敦煌の町を出て北西へ向かい、砂漠の道を約1時間30分走る。着いた先は、漢代長城である。造られてから2000年も経ち、その大部分が砂の中に消失してしまった中で、まだかろうじて壁としての形を維持しているのを見ると、2000年の重みを感じて言い知れぬ感動が湧いてくる。

 漢代長城から少し離れた所に玉門関がある。今はわずかに門の遺構が残るだけだが、2000年前には巨大な要塞であり、長城とも繋がっていたのだ。それにしても、莫高窟にはあれほど観光客がいたのに、この辺りには私くらいしかいないのが気になる。ガイドさんによると、これらのスポットは中国では人気が無いらしく、来るのは日本人ばかりだとか。やはり失われたものへの憧憬は、日本人の国民性なのだろうか?
 遺構の周囲は柵に囲まれていて中には入れないものだと諦めていたところ、近くで馬を引いていたおばさんが、「20元で入れる」と言ってきた。20元を渡すと、鍵を開けて柵の中へ入れてくれた。どう見ても施設の職員には見えないこのおばさん、一体何者なのだろう・・・。
 2000年の風雪に耐えたは、石で造られていてとても頑丈そうだった。多くの人々がくぐったに違いない門の壁に手を触れて、はるか古代に思いを馳せる。
 (ちなみに漢代長城・玉門関・河倉城の入場料はセットで30元。漢代長城手前の料金所で払う。河倉城は工事中ということで行けなかった。)

 玉門関から再び砂漠の道を一路南へ向かう。1時間ほどして陽関に到着。こちらは玉門関とはうって変わって、真新しい建物が建っている。陽関を再現したものらしい。かつては陽関も玉門関も長城と繋がっており、西方から来た人々は玉門関から中に入り、西方へ向かう人々は陽関から外に出て行った。つまり、かつては敦煌を囲む巨大な壁と要塞があったのだ。
 陽関の門上に立つと、遠くの山上に台状の遺構が小さく見える。これは実は、陽関に付属していたのろし台である。ガイドブックに「陽関」の写真として掲載されているのは、こののろし台なのだ。ぜひ行ってみたかったのだが、周囲に舗装された道が無く、距離も10kmもあるので諦めた。徒歩で行くか、バイクや馬に乗るしか無いらしい・・・。
 先程、「敦煌を囲む巨大な壁と要塞」と書いた。こんなものが必要だった理由は、ここから西は古代中国王朝の支配が及ばない地域、すなわち本当の西域だったからである。つまり、ここは古代中国の西の「果て」なのだ。多くの人々がここをくぐって西域へと旅立った陽関の門前には、荒涼たる砂漠が広がっている。この風景を見ていると、王維の詩の一節が頭の中で何度もリフレインしてしまう。「西出陽関無故人」。

 敦煌の町に戻り、また沙州市場へ行く。中国へ来て初めて屋台。満天の星空の下で食べるシシカバブの味は格別である。また、この近辺で捕れるという鯉の塩焼きも美味しかった。すっかり満腹になってホテルに戻ったが、前日に買ったメロンを食べるのを忘れていることに気づいた。包丁や皿など無いので、壁や床に叩きつけて割り、満腹なのを忘れて素手で豪快に食べた。とても甘くて美味しい。

続く
目次へ

"シルクロード鉄道旅行-第2弾(上海→敦煌)(13)" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント